第49章 地獄の料理バトル
キースの頼みを受けてナタルはマリューの自室を訪れていた。フラガの異名発覚以来、マリューは部屋に篭って出てこなくなってしまったのだ。それほどショックだったのだろうか。
ナタルは扉の前に立つと、気が進まなそうに小さく溜息を吐いて、気乗りしない様子でインターホンを押した。
「艦長、ナタル・バジルールです」
「…………」
だが、何時まで経っても返事が無い。仕方なくもう一度インターホンを押そうとしたのだが、いきなり目の前で扉が開き、髪も整えず、化粧もせず、服装も乱れているというか、シャツ一枚で下着が丸見えという、いかにも起きたばかりですという風体のマリューが出てきた。しかも少し酒臭い。
「何よナタル、なんか用なの?」
「……艦長、何て格好ですか」
ナタルが呆れ果てて右手で顔を押さえるが、マリューは気にした様子も無く右手で頭を掻きながら左手で部屋の中を指差した。
「まあ、そんな所に立ってるのもなんだし、中入ったら?」
「はい、そうします」
ナタルはマリューに言われるままに中に入り、そして絶句した。何だこの散らかしまくりの汚れきった部屋は。つまみと思われる料理の皿にビールの缶が散乱している。
「……艦長、せめて部屋の掃除くらいはして下さい」
「何よ、オバサン臭い小言ね」
「私は最低限の常識を言ってるんです!」
「ああもう、まだ少しきついんだから大声出さないで」
マリューは頭を押さえながら呻いた。どうやら軽い二日酔いであるらしい。ナタルは上官のだらしなさに溜息をつくと、ストンとベッドに腰を下ろした。
「まあ良いです。艦長の私生活問題はまた後日に話し合うとして」
「はいはい。で、用件は何なの?」
マリューの問いに、ナタルは表情を正した。
「実は、フラガ少佐の事なんですが……」
「ああ、フラガ少佐?」
いきなりマリューの柄が悪くなった。目が据わり、雰囲気がどす黒くなり、あからさまに危険なオーラを発している。ナタルは一瞬腰が引けてしまったが、すぐに我を取り戻すと話を再開した。
「艦長が怒るのは私も良く分かります。はっきり言ってフラガ少佐は女の敵です」
「そうよ。まったく腹立つたらありゃしない」
「……ですが、このままですと士気にも関わります。艦長と少佐が痴話喧嘩では冗談にもなりません」
「それくらい分かってるわよ」
マリューは右手をひらひらさせつつその場にドサリと腰を下ろした。そして少し俯きぎみになって呟くように言う。
「でもさあ、なんか許せないのよね」
「まあ、気持ちは分かりますが」
ナタルもマリューの憤りの大きさは察する事が出来るだけに、どうにも説得に力が入らない。それどころか、ともすれば同調しかねない心境だ。
だが、ナタルにはまだ切り札が残されている。そう、なんだか悪魔に魂売り渡す行為のような気がしないでもないのだが、とりあえず事態を打開するにはもっとも有効と思われる切り札を出した。
「そういえば艦長、フラガ少佐なのですが」
「何よ?」
「艦長の手料理が食べたいと言ってましたよ」
その瞬間、マリューの表情が目に見えて変化した。それまでの不機嫌一色だった表情に一瞬だけ嬉しそう、いや、歓喜が走ったのだ。それはフラガが自分の手料理を食べたいと言ってくれたからなのだろうか。
だが、すぐにそれは消え去り、後にはなにやら焦りだけが残された。
「わ、私の料理が食べたいの?」
「はい、是非にと」
勿論大嘘である。
「で、でも……私の料理なんてとても食べれたものじゃ」
「それはよく知っています」
ナタルの顔に苦々しい、というよりもう忌まわしい過去を持つ者が見せる痛々しさを浮かべる。それを見て、マリューが引き攣った笑顔を浮かべた。
「な、何かしら、ナタル?」
「……あの時、軍病院に搬送された犠牲者の中に、当時仕官学校の生徒だった私も居たのです」
「そ、それは、運が無かったわね」
「私はあの時、生まれて初めてカレーで生命の危機を感じましたよ」
忌まわしい過去が胸を過ぎる。あの日、出された食事は見た目が既におかしかった。ただのカレーライス、の筈なのだが、それは異様な臭気を発し、見たことも無い具が入っている。思えばあの時、第六感とも呼ぶべきものが全力で警報を発していたのに、自分の持つ軍人気質と士官学校の持つ校則がそれを強引に押さえ込んでしまった。そして、その後のことは思い出したくは無い。ただ目が覚めたら病室のベッドの上だったのだ。
ナタルは忌まわしき記憶を頭を振る事で打ち消すと、マリューを顔を見た。
「ですが、これで食べきれたなら、フラガ少佐を許してあげても良いのでは?」
「……でも、なんか恥ずかしいなあ」
尻込みしているマリューに、ナタルは「はあっ」と大きく溜息を吐いた。
「何を子供のような事を言っているんです。たかが料理をするだけでしょう」
「でも、この年で、しかも艦長が1人で厨房に立つってのもなんだか、ね」
マリューの返事に、ナタルはしばし考え込んだ。
「ようするに、1人でなければ良いのですね?」
「え、ええ、まあ」
頷くマリューを見て、ナタルは仕方なさそうにひとつの提案を出した。
「それでは、こうしましょう。艦内レクリェーションという事で、料理コンテストを開くんです」
「料理コンテスト?」
「はい。それで艦長以外にも参加して貰って、フラガ少佐に審査員になってもらえば良いのです」
「なるほど。それだったらおかしくは無いわね」
感心するマリュー。だが、この発想はナタルには似つかわしくない、随分と変化球な手口だ。
「ナタルにしては随分と面白い手ね」
「失礼ですね。それでは私が頑固者みたいではないですか」
「……みたいじゃなくて、そのものだったでしょう?」
マリューの突っ込みに怯みを見せるナタル。それを見てマリューはしてやったりという顔になり、ようやく機嫌を少しだけ直した。
「まあ、ナタルの折角のアイデア、無駄にするもの気が引けるし、それでいきましょうか」
「では、私は色々と準備をしておきます」
ベッドから腰を上げるナタル。マリューはそんなナタルに少し恥ずかしげに声をかけた。
「気を使ってくれてありがとう、ナタル」
「いいえ、これも副長の仕事です」
サラリと言って返すあたり、ナタルも精神的に成長し、それなりのゆとりを持てるようになったらしい。
だが、部屋を出る前にナタルはどうしても聞きたい事をマリューに問いかけていた。
「ところで艦長」
「なぁに?」
「この部屋の惨状は、フラガ少佐の過去の悪行に嫉妬したからですか?」
「違うわよ。久しぶりにゆっくりできる時間が取れたんだし、ちょっとハメ外しただけよ」
「…………」
ちょっとハメ外してこの惨状ですか、と視線で語りながら、ナタルは部屋を後にした。残されたマリューはどうしたものかと室内を見回し、右手で頭を掻く。
「はあ、面倒だけど、掃除するかな。どうも私はこういうのが苦手なんだけどなあ」
一瞬、艦長命令でキラ君にでも掃除してもらおうかと考えたが、床に落ちている下着を指先で摘んでその考えを捨て去った。流石に不味いだろう。女性の生下着を手に硬直しているキラの姿が目に浮かんでしまう。というか、そもそも自分の部屋を子供に掃除させようという考えが浮かぶ時点で何かがダメダメなのだが。
マリュー・ラミアス。家事が絶望的に出来ない女であった。
艦内を駆け巡った料理コンテストの話。それに参加するのは艦長のマリューにフレイ、カガリ、ミリアリア。審査員はフラガにキラ、サイ、トールとキサカ、ゲストで呼ばれたパワー代表のオルガだった。
「たくっ、何で俺がこんなことに付きあわなけりゃ……」
オルガが忌々しそうに呟くが、アルフレットに押し付けられたので逆らう訳にもいかなかったのだ。一応自分の指揮権はアルフレットに預けられている。
ちなみにナタルは「艦橋に幹部が不在というのは不味いので」と言って参加せず、審査員を持ちかけられたキースは何故か部屋に不在で、扉には「旅に出ます、探さないでください」という意味不明の張り紙がされていた。
かくして生贄……もとい、名誉ある審査員に選ばれた6人は、指定された席に付いてじっと料理が出てくるのを待つ。早く出来た者から料理を並べていくシステムになっているのだ。
キラは隣の席に座っている少し年上の、かなり柄の悪そうな男に声をかけた。
「あ、あの……」
「あん?」
ギロリと睨まれて、キラは首を竦めてしまった。何と言うか、迫力が違いすぎる。だが、キラを睨んだオルガの頭に見惚れるほど見事な拳骨が落ちてきた。なんとも言えない鈍い音を立てた頭を押さえてオルガが痙攣している。
「馬鹿野郎。何いきなりガンつけてるんだお前は?」
「……な、何しやがるクソジジイ!」
「口答えするんじゃねえ。まったく、何度言ってもお前は反省しねえなあ。人付き合いはまず礼儀からだと何時も教えてるだろうが」
「しみじみと呆れ声で言うんじゃねえ。お前は俺の何なんだよ!」
「上官で教育係だな。しかしまあ、キースといいお前といい、何で俺の下にはこう面倒な奴が集まるのかねえ」
やれやれとぼやくアルフレットにオルガはプルプルと身体を小刻みに震わせて怒りを露にしていたが、暫くすると肩を落として前を向いてしまった。どうやら言い争いでは勝てないらしい。実はある弱みを握られてるせいなのだが、キラがそんな事を知るはずもない。
何となく同情してしまったキラはもう一度声をかけた。
「あ、あの、気にしてませんから、気を落とさないでください」
「別に気落ちなんかしてねえ。うぜえから話しかけるな」
「あ……はい」
残念そうに肩を落とすキラ。その隣ではまた鈍い音が響き、オルガが再び文句を言っている。どうやらこれはもう日常茶飯事であるらしい。
ちなみに、後に聞いた話によると、このとっつき難い状態でも、配属された頃に較べれば随分マシになっているらしい。昔は何も言わずに殴りかかってきた事もあったそうだ。もっとも、キースで慣れていたアルフレットは躊躇うことなく武器を使ったりガスなどの鎮圧兵器を使ったりして押さえ込んでいたそうだが。正々堂々素手でぶつかろうとは最初から考えなかったらしい。卑怯と言うべきか、賢いと言うべきか迷うところだ。
オルガも何度も負けているうちに学習したらしく(最初の喧嘩でいきなり鎮圧用ゴム弾を装填した銃を使われれば誰だって学習する)、最近では余り逆らわなくなったそうだ。アルフレット曰く、「俺の熱い教育魂が通じたらしい」という事なのだが、昔オルガと同じ経験をしているキースに言わせると「教育魂というより、あの人のは親父魂だな。非行に走った息子を殴り倒して悔い改めさせる父親なんだよ」という事らしい。
つまり、アルフレットから見ればキースもオルガも親不孝な非行少年と同じ扱いであるらしかった。
艦橋にいるナタルはドリンクを口に含みながら艦長席に腰掛け、じっと正面の空域を見つめていた。代わり映えのしない景色だが、この辺りは連合の絶対制空権下にあり、敵の襲撃の危険性は零と言っても良い。だから、今の航海はアークエンジェルにとって初めてとも言える、とても穏やかなものであった。
操舵席に座っているノイマンが座席ごとナタルを振り返った。
「しかし、なんでまたいきなり料理コンテストなどを?」
「たまには良いだろう。これまでずっと激しい戦闘の連続だったし、どこかで息を抜かないと切れてしまう」
「まあ、そうですね」
ノイマンも頷いたが、正直驚いてもいた。こういう判断は艦長の領分だと思っていたのだが、意外と副長も柔軟な思考が出来たらしい。もっとも、その柔軟な思考の出所が実はキースだと知ったら、なるほどと頷いたかもしれない。
そしてナタルは、一見生真面目に、だが内心ではフラガに謝り続けていたりする。
『すいませんフラガ少佐。貴方の事は忘れませんから、どうか安らかにお眠りください。いえ、そもそも貴方がそんな人として不出来な行動に走っていたのがいけないのであって、私が恨まれる筋合いも無いわけで……』
途中から何やら自己正当化に走っているが、まあ良いだろう。フラガが悪い事は間違いないのだから。
そして料理会場では、何やら異様な空気が流れていた。調理をしている4人、その内少なくとも3人は何やらおかしい。と言うか、普通の料理を作っているようには見えない。うち1人はむしろ危険人物に見える。
「ええと、カレー粉に、小麦粉、岩海苔、納豆、ニラ……」
何を作ってるんですか、マリューさん?
「おっかしいなあ、確かこれで良いはずって何よこれはあああ!?」
フレイさん、鍋からどうしてプロミネンスが?
「ふっふっふ、見ろ、私の包丁捌きを!」
確かに見事な技ですが、カガリさん、貴女は包丁を持つと性格が変わる人ですか?
とりあえず、ミリィだけは黙々と自分の料理を作っている。目分量で調味料を測れるくらいの経験は積んでいるようだ。安全牌は彼女だけだろう。
目の前で繰り広げられる異様な光景に、審査員の6人の顔色はだんだん悪くなっていた。と言うか、自分たちは生きて部屋に帰れるのだろうか。
「な、なあ、サイ。フレイの料理の腕前って、どれくらいなんだ?」
「いや、俺もフレイの料理を食べた事は無いんだ」
「……一応、婚約者だったんだよな?」
「なんとなく悔しいから一応はいらないぞ。まあそれは良いとして、これまでデートもした事無かったからなあ」
「…………」
サイ、それは本当に親が決めただけの関係だったんじゃないのか? 何となくわだかまっていた同情心がぐらついているトールであった。
そこはアークエンジェルの中、誰も立ち寄らない寂しい区画にある空き部屋。本当なら倉庫か何かに使われるのだろうが、慢性的な物資不足に悩まされているアークエンジェルにはこういう部屋が幾つか存在する。その中で、2人の男が缶コーヒーを手に真剣な顔を向け合っていた。
「問題なのは、人は自分を犠牲にして友情を選べるのか、という事だな」
キースは缶コーヒーを口に含み、重々しく呟く。
「難しいと思います」
こちらはまだ缶コーヒーを開けていないカズィ。なにやら珍しい組み合わせだ。
「分かってはいるんだ。人は愛や友情だけでは生き残れない。時にはそれらを投げ捨てて逃げ出さなくちゃいけない時もある」
「それが今だと言うんですか?」
「逃げるのもまた勇気だとは思わないか?」
「……そうかもしれませんけど、裏切られた相手はどう思うでしょうね」
プルタブを開けるカズィ。その口調は完全に他人事だ。
「他人事のように言うな。君の友人も参加していると言うのに」
キースのツッコミにカズィは飲みかけのコーヒーを置き、静かに考えた。そして、思慮の末に出した答えを口にする。
「これは試練なんです。キラやトールは今の関係を一歩進めるために越えなくてはいけない試練なんです」
「サイはどうなんだ?」
「サイは危険の察知が出来なかった。引き際を誤まったんです。生き残っていく為にはさまざまな危険を察知しなくてはいけないというのに」
「なるほど、引き際か。だから君はサイを見捨てて艦橋から逃げ出したんだな」
なるほどと頷くキース。キースが矛を収めたのを見て取ったカズィはここぞとばかりに反撃に出る。
「キースさんこそ、戦友を死地に追いやって良いんですか?」
「……これもまた試練なんだろうな。フラガ少佐は艦長に誠意を示さなくてはならない。たとえその命を失おうとも」
「キサカさんと、パワーから来た人は?」
「キサカ氏は自ら望んで赴いたんだ。本望だろう。オルガは、生贄なのだろうな」
「生贄ですか」
なるほどとカズィも頷く。彼らがこんな哲学風味に話していられるのも、自分が安全圏に退避できたという確信があるからである。人は戦いを遠くから眺めていられる時、それを娯楽と楽しむことが出来る。そこでどれだけの人々が傷つき、苦しんでいるかを分かっているはずなのに、傍観者だからという余裕で全てを片付けてしまう。
そして2人は、自らの安全を確認しあいつつ、缶コーヒを口に運んだ。とりあえず、全てが終わったら手ぐらいは合わせてやろうと思いながら。
そこは既に異界であった。異様な空気と臭気が充満し、かつては普通に美味しく食べられたであろう食材が異界の技によって形容し難い何かへと変貌を遂げている。それらを目の当たりにしている審査員たちは一様に顔色を失い、気の弱いサイは今にも気を失いそうになっている。
そして、最初の料理が6人の前に並べられた。
「うーん、一応頑張ってみたんだけど」
ミリィが出してきたのはトーストに半熟の目玉焼き。簡単なサラダにコンソメスープという朝食風味なメニューだった。これなら確かに失敗はしないだろう。出だしとしてはまあまあのメニューだ。だが、5人がトーストを手にする中で、何故かトールとサイは何にも手を付けようとはしなかった。
そして、サラダを食べたキラがいきなり糸が切れた人形のようにその場に突っ伏した。それを見た参加者たちがぎょっとしてキラを見やる。
「おい、どうしたキラ?」
心配したフラガが声をかけるが、キラは何かに堪える様に顔を顰め、ぴくぴくと痙攣している。そして、それを見たトールが落ち着いた声で目の前のメニューを見る。
「ふむ、今回はサラダか」
「どういうことだ?」
フラガがトールに問いかける。トールはトーストにバターを塗りながらそれに答えた。
「いえ、ミリィの料理は必ず何かが地雷なんです。今回はサラダのドレッシングでしょうね」
「つまり、君はそれを知っていて黙って様子を伺っていたと?」
フラガの詰問に、トールは視線を泳がせることで答えた。フラガはトールの計算高さに呆れたものの、自分もキラの犠牲を無駄にせぬようサラダを横にどける。
だが、4人の何ともいえない視線がトールに集まってしまう。その視線にさらされたトールが戸惑った声を上げた。
「な、なんですか!?」
「いや、なんと言うか、なあ?」
フラガが何とも言えない目でトールを見た後、視線を他の2人に向ける。他の2人にも同様の意思が見て取れる。そう、みんなトールに同情しているのだ。お前の未来の食生活は暗いぞと。2人の関係を知らないオルガは我関せずとばかりに食事を続けていた。勿論サラダは退けている。
男たちがそんな失礼な事を考えているとも知らず、ミリィは目配せをしている男たちをキョトンとした顔で見ていた。ちなみに、キラは5分後に何とか復活した。
しかしまあ、ミリィの食事は極めて問題点の無い、いや、恐ろしい問題があるような気もするが、食べれるので問題は無い。問題なのはここからなのだ。
ミリィの次に料理を持ってきたのはカガリだった。出てきたのは野菜スープと、何処から出てきたのかご飯である。一体アークエンジェルの何処に米があったのだろうと誰もが思ったが、あえて口にはしない。それよりももっと大きな疑問が先ほどからこの食堂に満ちているからだ。いや、時折調理場から聞こえる怪しげな声とか、謎の悲鳴とか、奇怪な音とか……
「どうだ、私もやれば出来るだろう」
えへんと胸を張るカガリ。だが、スプーンでご飯を口に運んだキラはすぐに顔を顰めた。
「……生煮えだ」
それを皮切りに次々と出てくる不満の山。
「この人参、皮が剥いてないぞ」
「なんで野菜スープに長ネギが?」
「塩が多すぎだ」
「煮込み時間が足りない。野菜に芯がかなり残っている」
「不味いぞ」
最後のオルガの感想は余りにもストレートだった。その直後にオルガの頭にカガリの投げたお玉が直撃し、綺麗な音を立てる。額にモロに食らったオルガは大きくのけぞった後、強引に身体を戻して文句を口にした。
「ってえな、何しやがる!」
「やかましい。いきなり不味いなんて言いやがって!」
「本当の事だろうが。お前ちゃんと試食したのか!?」
「試食? そんな物いらん!」
「ちょっと待ちやがれ、この自信二乗女!」
何とも酷い事を言うオルガ。カガリは顔を真っ赤にして怒っているが、他の5人はオルガの言葉に内心で頷いていたので、誰もカガリの擁護はしなかった。
そして遂にカガリは切れた。
「もう怒った、表に出ろ!」
「良い度胸だ、後悔するなよ阿婆擦れ!」
「誰が阿婆擦れだ!?」
右手に柳刃包丁持って怒りを露にするカガリと、拳を握るオルガ。このまま流血の惨事にと誰もが思ったが、それが激突するより早くオルガの頭に拳骨が落ち、カガリの後頭部にハリセンが叩き込まれた。
「ぐぁあああ!」
「きゅう……」
頭を抱えて悶絶するオルガと、ハリセンの一撃で気絶してしまうカガリ。カガリを殴ったのはフレイだった。
「もう、この娘は。カッとなるとすぐに手が出るんだから」
「「「「「「…………」」」」」」
フレイの呆れた呟きを聞いて6人は思った。そのハリセンは何処から出てきたんだと。
そして、遂にフレイの料理が出てきた。器に盛られているのはシチューだと言う。赤っぽい色からするとアイリッシュシチューなのだろうか。しかし、問題なのはそこではない。何故に鍋から出されたはずのシチューからポコリと泡が立つのだ? この不可思議な香りは何だ? そもそも煮込んだ筈の肉や野菜は何処に行った?
疑問は尽きないが、当面の問題はそこではない。問題なのは、この怪しげな物体Xを口に運ばなくてはならないという現実だ。
サイは無言でトールを見た。トールもまた自分を見ている。
「ど、どうぞ、サイ」
「い、いやいや、トールこそお先に」
お互いにスケープゴートは御免だとばかりに笑顔で先を譲り合っている。その表情には生き残るのに必死なサバイバルの現実がまざまざと浮かんでいる。生き残る為には友情など売り渡すほどの利己心が必要なのだ。
そして、誰も手をつけないこのシチュー? の製作者、フレイは悲しそうな顔でキラを見た。
「キラ……」
「くぅっ」
上目遣いの悲しげな視線にキラは自分の心がぐらつくのを確かに感じた。所詮は彼も男だということなのだろう。そして遂にその視線に耐えられなくなったキラはスプーンを掴むと、まるで特攻をかける直前のパイロットのような、何かを諦めた表情で宣言した。
「キラ・ヤマト、突貫します!」
スプーンでシチューをすくい、口に運ぶ。それを誰もが固唾を呑んで見守る中、ふいにキラが小さなうめき声を上げた。
「大丈夫か!?」
「傷は浅いぞ、しっかりしろ!」
トールが肩を叩き、フラガが何処からとも無く洗面器を持ち出してくる。だが、次のキラの反応は全員の予想とは大きく違うものであった。
「あれ、食べられる?」
失礼極まりない発言だが、この場では誰もそれをおかしいとは思わなかった。まさか、この異臭を発する物体Xは可食物だというのか。キラを除く5人は信じられないという表情でスプーンにそれを1匙すくい、恐る恐る口に運んだ。
「……確かに、食えるな」
「不味いけど、食べられるぞ」
「この匂いと見た目で何故食べられる?」
「こう、理不尽なものを感じるな」
「だが不味い事は隠せないぞ」
一同はどうしてこれが食べられるのかしきりに首を捻っていた。見た目からすれば今までで一番ヤバげと言うか、どう見ても食える代物ではないのに。しかし、食べられるだけで不味い事には変わりは無かった。
そして、その真の恐怖はこの後襲ってきたのだ。
ドンッ!! ズズ、ズゥゥゥンン……
突如として下腹部から衝撃がきた。
これまで経験したことも無いメガトン級の衝撃が全身を駆け抜ける。破壊の中心点は腹から下腹部へと移行し、お尻の辺りがやんごとなき状態に陥った。キラのコーディネイターとしての強靭な肉体でさえ、その猛威の前には全くの無力であった。
「だ、誰か……助けて……」
キラが必死の形相で助けを求めるが、誰にも彼を救う事は叶わなかった。他の5人も同様に真っ青な顔に滝のような脂汗を流し、全身全霊の力でよろよろと食堂を後にして行く。あの凶暴なオルガでさえ顔を悲痛に引き攣らせ、苦悶に脂汗を流しているのだ。
そのまま彼らは暫くの間、トイレから帰って来なかったのである。
そして、とうとうマリューの番がやってきた。何となく精根尽き果てている審査員たちは、それでも不屈の闘志、ではなく、話の都合の為にゾンビの如く復活してきている。些か耐久力に欠けるためか、サイとトールはすでに目の焦点が合っておらず、根性が足りないキラは何やらシンジ君症候群に陥り、「逃げちゃ駄目だ……」とかぶつぶつと呟き続けていた。
テーブルに置かれたカレーの皿を見て、とりあえず正気の4人は安堵した。正気を無くしてるっぽいサイとトールは目の前のカレーに気付いているかどうかが怪しい。
見た目は赤みがかったカレーソースのかかった白米。つまりカレーライスである。匂いも問題は無い。だが、調理中に呟いていた材料を考えるとこれもまともな食べ物でない事くらい、容易く察する事が出来る。というより、フラガの持つ第六感が全力で告げているのだ。
「これを食えば、死して屍拾うものなし」
と。
だが、出された以上最低でも一口は口にしないといけないだろう。たとえそれが死に至る行為だと分かっていても、だ。フラガは恐る恐る視線を上げ、調理をしたマリューを見る。マリューは期待と不安を顔一杯に映し出しながら固唾を呑んで自分を見ている。
その顔を見て、フラガは覚悟を決めた。あんなに期待されてるのに、今更逃げられるかよ!
意を決したフラガはスプーンに山盛りのカレーを迷うことなく口に頬張った。
「……ぐぅ!?」
一瞬意識が飛んだ。これはもう不味いとかいうレベルではない。今までに食べたいかなる物体にも共通点が見出せない不思議な味わいと、舌にねっとりと粘りつき、何時までも後を引く不可思議な舌触り。まるで舌の上でこの世の悪意が塊となって踊っているかのようだ。これを食べ慣れれば不味い事で有名な軍用のレーションが珠玉の美味に感じられるようになるだろう。
だが、フラガはその苦痛を顔に出すことなく、表面自然を装いながら1匙、また1匙と皿の中身を減らしていった。ちなみに制服で隠された部分には脂汗が滝のように流れており、その苦痛を伝えている。
なんだか平気そうなフラガを見てオルガとキサカがスプーンを取った。キラだけは何故か先ほどからフレイが必死な目で自分を見ているのが気になっており、あえて2人の様子を伺っている。ちなみに残る2人は既に一口食べる前の段階でリタイア状態である。
オルガとキサカがスプーンを口に運び、次の瞬間には悶絶して声も上げられ無い苦痛を全身で訴えている。それを見たキラとフレイとミリアリアがビクリと体を半歩引き、改めて視線を交し合う。
「な、何なの、このカレーは?」
「さあ?」
「ナタルさんが食べたら病院送りと言ってたけど……」
ちなみにカガリは未だに昏倒中。
この恐るべき料理を、フラガはなんと完食してしまった。最後の一口が口に運ばれ、殻になった更にスプーンが置かれる。そしてグラスに残された水を飲み干した後、何とも開放感に包まれた爽やか過ぎる笑顔になった。
「美味しかったよ」
それだけ言い残し、フラガは食堂から出て行った。残る5人はというと、オルガとキサカはカレーの皿に顔を突っ込んで何やら断末魔としか思えないヤバゲな痙攣をしているし、相変わらず二人は復活していない。そしてキラはといえば再びシンジ君症候群、いや、もっと後ろ向きに「逃げなくちゃ駄目だ」とか呟いている。
フレイとミリアリアはどうしたものかと顔を見合わせたが、一応出された料理を一口も食べずに下げるというのは流石に礼儀に反するので、ここは心を鬼にして一口食べさせなくてはならないだろう。すでに現実から逃避している2人は意図的に除外されている。
「キラ、一応、一口は食べてね」
「フレイ、それは僕に死ねと?」
キラは隣で突っ伏している2人を横目に問いかける。既に2人とも痙攣という状態が終わり、動かなくなっている辺りがかなり怖い。
フレイは嫌々と首を横に振るキラを見て小さく溜息を吐くと、無言でミリアリアを見た。それを見たミリアリアが仕方なさそうにキラに一枚のプリントを見せる。それを見たキラが一瞬首を捻り、そしてそのプリントが示す真の意味を悟って顔を引き攣らせた。
「ミ、ミリィ、これは!?」
「これから暫くの献立予定。ピーマンとか人参とかばかりよねえ」
「ミリィ……」
キラが泣きそうな顔でミリアリアを見る。キラは野菜が嫌いなのだ。それを見たミリアリアが邪な笑顔でキラに交換条件を突きつける。
「でも、キラがちょっと頑張ってくれたら、この献立を変えても良いんだけどなあ」
「…………」
暫く考えていたキラは、がっくりと肩を落とすとスプーンを取り、死刑執行を待つ囚人のような、何かを諦めた表情でスプーンを口に運び、3人目の失神者となった。
カレーに顔を突っ込んでピクピクと痙攣しているキラを見ながら、フレイはミリアリアに問いかけた。
「ところでミリィ、あなた、食事のメニューなんか弄れるの?」
「そんなのできるわけ無いでしょ」
「え、じゃあさっきのは?」
「よく見なさいよ」
ミリアリアは先ほどの献立表をみせた。そう、日付の辺りを。そこには、丁度先月の日付が付いていたのである。
「……先月の献立?」
「そう。キラはそれに気付かずに取引しただけよ。だから明日からの献立はこれとは違ってるわ」
「悪魔ね」
フレイはミリアリアの知略に恐れを抱いた。彼女は敵にしてはいけない人間なのだろう。
なお、フラガは自室に戻った後倒れてしまい、内臓疾患で2日ほど生死の境をさまよう事になる。そんなフラガをすっかり機嫌の直ったマリューが手の空く限り看病して一層の病状悪化を招いたという些細な事件もあったりする。
戦いが終わった食堂に足を踏み入れたナタルは、予想通りの惨状にやれやれと呆れた声を漏らした。もはやその心境は悟りの境地か、はたまた最初から諦めていたのか。
「まったく、後片付けはその日のうちにやっておかないか。あいつら、これでは将来に貰ってくれる当てが無いぞ」
仕方なく軍服の袖を捲り上げ、食堂に残されていたエプロンを付けて積み上げられている食器や鍋を洗いだす。その手際は中々に大したもので、あれだけ荒れ放題だった調理場が少しずつ、だが確実に綺麗になっていく。
何やら楽しげに手を動かしていたナタルだったが、ふいに調理場の入り口からかけられた声にその手を止めた。
「バジルール中尉?」
「ん?」
誰かと思って入り口に目をやれば、些か憔悴した感じのキラが立っていた。
「キラ・ヤマト少尉か。もう身体は良いのか?」
「はい。流石にまだちょっと体の調子がおかしいですけど、少しお腹がすいてしまって。何か無いかなと見に来たんですけど、この様子じゃ無理そうですね」
動けるだけ大したものだろう。他の5人はまだへばっている。オルガもパワーに戻る事が出来ず、医務室のベッドで唸っているくらいだ。ちなみに1名は現在重態である。
少し考えたナタルは、部屋に戻ろうと踵を返したキラを呼び止めた。
「待て、ヤマト少尉」
「はい、何ですか?」
「もう少し待てるなら、適当に腰掛けていると良い。余っている食材で何か作ってやろう」
「え?」
キラは驚愕してナタルを見た。まさか、この副長に料理が出来るというのか? 女性は家事が出来る、という妄想を今日の出来事で粉微塵に打ち砕かれてしまったキラは、詐欺商売に騙さて高額屑商品を買ってしまった馬鹿な男そのものの目でナタルを見た。
「あ、あの、本当に大丈夫ですか?」
「なにがだ?」
「いや、中尉が料理って……」
キラが恐れている何かを察したナタルは、まあ仕方が無いなと思った。かつて自分もあの地獄を味わった事があるのだから。
「心配するな。上手くは無いが、それなりには出来る」
「ど、どれくらいです?」
「そうだな、艦長よりは上手いかな」
「…………」
キラの顔を滝のような汗が流れ出した。マリューよりは上手いというか、あれより下手な料理など想像も出来ない。いや、それはもう戦略兵器だろう。存在そのものが神の摂理に逆らうことに違いない。
だが、キラは知らなかった。この世にはマリューさえも上回るマッドクッキング技能の持ち主、ラクスがいるのだ。あれを食べたアスランは文字通り生死の境を彷徨った。
しかし、ここまで破滅的な料理技能の持ち主が周りにいる辺り、キラもアスランも神様に嫌われているに違いない。
暫くしてナタルが皿に野菜炒めのようなものを作って持ってきた。その中身を見たキラが僅かに顔を引き攣らせる。それは、自分の嫌いな野菜のオンパレードだったのだ。
「あ、あの、これは?」
「うむ、君は好き嫌いが激しいと聞いている。栄養が偏るのはパイロットとしての能力に影響を及ぼしかねないからな。こんなものを作ってみた」
ナタルらしい意見だが、それを食わされる自分にしてみればたまったものではない。だが、食べないという選択はキラの中には無かった。だって怖いし。もし逆らったりしたら何されるのか分かったものではない。相手はあのキースやフラガでさえ黙らせるアークエンジェル最後の常識人、フレイとカガリの師匠、苛烈なる良識派ナタル・バジルールなのだ。
仕方なく意を決して箸を掴み、渋々それを口に運ぶ。だが、口の中に入ったそれは、キラの想像を超えて普通に美味しかった。
「あ、あれ、美味しい?」
「君は一体どういうものを想像していたんだ?」
ナタルの問いに、キラは素直に想像していたものを語った。それを聞いたナタルはやれやれと肩を落とし、エプロンで手を拭うと、キラと向かい合うように腰掛けた。
「まあ、今日は災難だったな。明日にはマドラスに着く。そこで一週間ほどの休暇が出せると思うから、羽を伸ばすと良い」
「え、休暇、ですか?」
「ああ、何とかなると思う。溜まった給料でも使うと良いだろう。使える時に使わないと溜まる一方だからな」
いかにも自分は溜め込んでますという感じのナタルの言葉に、キラはなるほどと納得して頷いた。
「まあ、フレイなりカガリなりでもデートに誘ったらどうだ。多分喜ぶと思うが?」
「な、何を言ってるんですか!」
顔を真っ赤にして焦った声を上げるキラに、ナタルはやれやれと呆れながらも、女性の扱いに慣れていない事が丸分かりな反応に微笑を浮かべた。そして、自分らしくない感想に今度は苦笑してしまう。こういう役は本来はキースの分担の筈なのだが、何で自分が演じているのだろうか。
「多分、らしくない、のだろうな」
自分もこの艦の空気に随分染まっているとは分かっていたが、子供にアドバイスをするほどに角が取れていたとはな。
だが、苦笑を浮かべるナタルというのが余程珍しかったのだろう。キラが口を半開きにして呆然としている。それに気付いたナタルがどうしたのか問いかけると、そのままずばりの返事が出てきた。それを聞いたナタルは納得してしまったが、同時にまた笑いが込み上げてきてしまい、小さく声に出して笑ってしまった。
「ふふふふふ、そうだな、確かに、昔に較べれば変わったかな」
「いえ、その、ヘリオポリスの頃のバジルール中尉は、厳しいとか、怖いとか、そういう印象でしたから」
「……ふむ、否定できんな」
胸の前で腕を組み、昔の自分を思い出してみる。確かにあの頃は肩肘を張って、全てを杓子定義にはかろうとしていたように思う。今にして思えば何と余裕が無かったのだろうと失笑してしまうが、あの頃はあれが自分にとって当然だったのだ。
キラとナタルの雑談は、キラが野菜炒めを食べ終えるまで続いた。夜食を食べ終えたキラは礼を言って食堂を去り、残されたナタルはその皿を洗って棚に戻し、ふと考え込む。
「……休暇、か」
キラをからかった自分だったが、考えてみれば自分も人の事をからかえるほど経験を積んでるわけではない。というか、全く経験が無い。それに気付いてしまったナタルは、どうしたものかと深刻に考え込んでしまったのである。
ちなみに、エプロンを付けて食堂で悩みこむナタル、という珍しい姿は、幸いにして誰にも目撃される事は無かった。
後書き
カガリ あのド腐れ作者は何処に行きやがった!?
フレイ カガリ、こんな書置きがあったわ!
カガリ なになに、「まだまだ甘いな、カガリ君」?
フレイ 相変わらず逃げ足だけは速いわね。
カガリ くそっ、見つけ次第銃殺にしてやる。
フレイ そうよ、MSの射撃練習の的にしてやるわ。
カガリ 探すぞ。まだ遠くには行っていないはずだ。
フレイ ええ、草の根分けても探すのよ!